事実と、真実と。
街灯や灯りのまわりに、七色のプリズムが見えるとはじめて気付いた夜。
「ねえ、見て!すごい!私!!こんなの初めて!!」
と、興奮し、忙しなくはしゃぐ私に、
「ああ。言われてみれば。」
と、彼は目を細めて同調し、頷いた。
後日、コンタクトレンズを外した裸眼では、あの劇的なプリズムは見えないのだと気付いた。
視力がよくて、常日頃裸眼のきみの瞳には、いったいなにが見えていたのだろう。
不登校の中学生時代、ギターを教えてくれていた人がいた。
姉がネット上で知り合ったという彼は、いつもスーツを着ていて、ハードのギターケースを片手にタバコを吸っていた。
肩まである茶髪も相俟って、見てくれはホストかやくざさんといった風貌。
「良い楽器は、弾くのが楽しくてすぐに上達するんだよ。」
と、ギブソンのSGを貸してくれた。
指板をすべるようなおどるような指ざわりに感動して、借りたギターをたくさん弾いた。
引きこもりで、挙動不審で、疑心暗鬼の塊だった私に、しょっちゅう連絡をしてくれた。
「うまいものでも喰いに行くぞ!」
と、私を呼びつけては、ごはんをごちそうしてくれた。
彼は、店の中でも、高価な料理を好んで選んで注文した。
私は、節約するよう言われ過ごした幼少期からの癖で、なんでも好きなもんを頼め!という彼の言葉に、どれがいちばんやすいだろうかとメニューに目を走らせる。
安すぎると気を遣っていると思われるので、全体の価格の中で、中の下、下の少し上くらいを算出しながら、悩み、迷う。
いつまでもメニューを決め兼ねてまごつく私に痺れを切らし、テーブルいっぱいの料理を注文する彼。
食べ物を残すのはよくないことであり、禁忌として育てられた私は、困惑した。
お米粒がお皿に残っているだけで、いてもたってもいられない。
食べ残しはよくないからぜんぶ食べなくちゃ、と言う私に、
「食べきれなかったら、残せばいい。」
と平気な顔で言ってのける彼。
比較的少食な私が頑張ったところで、すべてを食べ尽くせるはずもなく、残った料理に後ろ髪を引かれる思いで、会計を済ませ退店する彼についてゆく。
あの日残されたごはんたちは、いったいどこへいったのだろう。
めぐりめぐって、海か土に還れていたならいい。
「遊びに行くぞ!」
と言われ、度々、夜の街に繰り出す。
宵のネオンは、昼間の太陽よりもやさしくて、ほどよく暗闇を残してくれる。
「女は好きだけど、おまえなんて青臭くて抱けねえわ!」
と高らかに笑う。
大好きなお酒を煽りながら、
「おまえにはまだ早い!」
と言い、私には一滴もアルコールを呑ませない。
ひとしきり遊んだ後には、必ず実家まで送り届けてくれた。
いつもありがとうございます、と、玄関口でおかあさんが頭を下げる。
彼は、真夜中に電話をかけてくる。
丑三つ時から、明け方あたり。
不登校で引きこもりの私にとって、いちばん助けてほしい時間帯だった。
電話口は、彼でないことも多かった。
多重人格障害だという彼のなかには、いくつかの違う人格が住んでいる。
電話がかかってきた時から別の人の時もあれば、話している途中で突然無言になり、別の人格が話し始めることもあった。
部屋の障子が朝日で薄明るくなるまで、他愛もない話をした。
深刻な話もあった。
かなしくてつらい昔の話に、胸が痛んだ。
震災や戦争など耐え難い体験をした人のカウンセリングをした医師は、さらに別の医師にカウンセリングをしてもらい、伝言ゲームのように痛みを分散させてゆくらしい。
そうしないと、精神を病んでしまうのだという。
ひとりでは、抱えきれないからだ。
私には話を聞くことしか出来ないけれど、彼の重たい荷物が、すこしでも軽くなったらいいなと思った。
いちばん助けてほしい時間帯だったのは、お互い様だったのかもしれない。
彼の言うことは、正直、本当か否か、定かではなかった。
辻褄が合わないようなことや、答え合わせの出来ないほど壮大な話。
疑おうとおもえば、いくらでも綻びは見つかった。
多重人格の多数の人物とも話を重ね、どれが本当で、どれが嘘なのか、だんだんわからなくなっていった。
わからない、信じたい、でも、と、頭と心を逡巡させ尽くした結果、本当かどうかは重要ではないのだ、と思った。
彼が私に提示してくれた、私と彼のためだけに用意してくれた真実が在れば、現実か事実かなんて、大した問題ではないと思った。
それから私は、事実と真実を別物として捉えるようになった。
ひとつの事象=事実も、介する眼球と脳を変えれば、まったくちがう影の落とし方をする。
どちらが正しいか、より事実に近いのかを論じるよりも、あなたの真実と私の真実、その危うい揺らぎの先端で、触れ合うことの出来た奇跡が重要なのだと知った。
たとえそれが、嘘でも、妄想でも、あなたが私のためだけに、特別に拵えてくれた真実を、私はきちんと味わいたい。
すべてのあなたの真実を、きちんと全部、食べ尽くしたい。
裸眼の彼の瞳には、いったいなにが見えていたのだろう。
はしゃぐ私のために、ちいさな嘘を吐いたのだろうか。
それとも、彼には彼のプリズムが映っていたのだろうか。
どっちだっていいか、真実なんだし、なんて思い乍ら、不登校時代のあの人のことを思い出していた。
人が人と出会い、言葉を交わし、わらい合うこと。
そういうことをして。
ひとつひとつ、噛み締めて。
今日も、あしたも。
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